東の小京都「足利市」は歴史と文化の町。

 足利は昔から織物の産地として有名で、日本一の足利本銘仙を仕立て上げ、生産高日本一で、足利銘仙の一大ブームを巻き起こした。その結果、日本橋の一流百貨店などでも取り扱われるようになった。本町(もとまち)界隈に整経屋、賃機(ちんばた)屋や買継商などがたくさんあった。商店は繁盛し、大通りや北仲通り、南銀座通りなど大変な賑わいを呈していた。足利銘仙の黄金時代といえる。伊勢崎、桐生、秩父、八王子、そして足利、関東五大産地といわれた銘仙黄金期に「一頭地を抜く名声」を獲得し隆盛を極めました。
 その足利銘仙が全国を制覇したおおきな理由は、デザインと宣伝力にあるそうだ。図案や染めの職人を京から呼び寄せる一方、一流画家や大女優を起用したポスターを刷り、三越や高島屋と提携して陳列会を催すかたわら、地方にもダイレクトメールを送った。市内を見晴らす織姫神社は、銘仙全盛期の織物組合により再建された。日本最古の学び舎である足利学校で名高い当地は、元機の子弟教育にも力を注いだ。明治中期の織物技術第一人者、近藤徳太郎を京から招いて創立された足利工業高校の貴重な資料が「足利まちなか遊学館」に展示されている。巨大な八丁撚糸機の見るだに頭のよじれるような複雑な構造は、糸撚りや染め、織りなどいくつもの工程に細かく分かれた織物産業における専門技術の高さを示す。こうした土壌から、日本の意匠登録第一号である雲井織などあたらしい織りも生まれた。足利銘仙の特徴は、経糸に緯糸を粗く仮織りし、捺染ののち水洗乾燥して緯糸をすこしずつ解(ほぐ)しながら織る解し織りという技法。やわらかく複雑な絣もようが織りあがる。大正期には、緯糸に絣糸をもちいた半併用という立体感のある織りもうまれて足利銘仙の名を高め、昭和14年には生産高全国一になりました。